OC Report オーガニック クロッシング リポート
G-Grape Pickにィック→宮城県石巻!
2020-06-06
被災地に、みんなで収穫したブドウを届けたい!
「物理的な距離は遠くても、心の距離を近く!」をテーマに、被災地と関西を繋ぐプロジェクトとして企画した「G-Grape Pickにィック!→宮城県石巻」。
直接行くことはできなくても、被災地へ届けるためのブドウを一緒に収穫することで、被災地をより身近に感じてほしい、もっと関心をもってほしい、という気持ちでスタートした企画。参加者のみなさんと収穫したところから、被災地石巻のみなさんに届くまでをレポートします。
超大型の台風6号が近づいているという悪条件のなか、午前中はくもりの予報を信じて迎えたイベント当日。朝6時に携帯がなった。
「もしもし?」
「でぐっさん!もう雨降ってるで!」
「え~マジで!早すぎるやろ!」
G-Grape Farmの小林くんからの報告は、まだすこし寝ていた頭を一気にたたき起こしてくれた。台風の動きは遅く、たぶん昼すぎ、あわよくば夕方まで雨は降らないだろうと考えていた自分の予測の甘さを反省しながら、このときはまだ小雨程度ということだったのでイベントは開催することに決定した。
しかし時間が経つれ激しくなっていく雨は、一向にやみそうな気配がない。
「これは・・・もう、誰も来てくれないかもしれないな・・・。」
そう覚悟を決めてG-Grape Farmへ向かった。
ところが蓋を開けてみれば、僕の予想に反してキャンセルは一件のみ。
それも小さな子供連れというやむない事情がある方だった。
最終的な参加者は午前の部が大人13名+子供3人、午後の部が大人8人+子供2人の計26人!
この企画に被災地への想いを込めていた僕としては、この雨のなかこれだけの人に集まっていただけたということに、勇気と希望をいただきました!
G-Grape Farm
今回の企画に協力してくれた「G-Grape Farm」は大阪府羽曳野市駒ヶ谷地区にある。
もともと桃の産地だったという場所だが、いまでは丘陵地一面にぶどう畑が広がり、河内ワインの工場などもある大阪でも有数のぶどうの産地。特にデラウェアが有名で、多くの農家さんがデラウェアを育てている。
G-Grape Farmの小林庸恭くん(写真左)は、古くから続くぶどうの産地であるこの駒ヶ谷地区で、初めての外部からの新規就農者。まったく初めてだったので村やJAも対応に困ったという話まであるほど、外部からのぶどう栽培への新規就農者は少ない。
新規就農者として地域の長老たちを尊重しながらも、独自の考え方でぶどうの栽培に取り組んでいる小林くん。農薬を極限まで減らす、種からぶどうの苗木を育てる、除草剤を使わず草とともに育てる「草生栽培」を試みる、独自の品種を栽培するなど、ぶどうに関するあらゆる可能性にチャレンジしている。
今年、府認定農業者およびエコファーマーを取得し、これから先が楽しみな農家さんだ。
僕が「被災地に、みんなで収穫したおいしいぶどうを届けるイベントをやりたい」という話をすると、二つ返事で「ぜひやりましょう!」と言ってくれた。
ぶどうの森で。
駒ヶ谷という場所が面白いのは、ぶどう畑に隣接しているのが倉庫や工場が立ち並ぶ工業地帯だということ。小林くんの畑も工場の間の細い道を入っていった先にある。
参加者のみなさんも「こんなとこに?ぶどう畑が?」と思われたかもしれない。
しかし農園に一歩踏み込めば、そこは一面のぶどうの森。
頭の上から食べごろに熟したデラウェアがブラブラと、そこかしこにぶら下がっている。
工業地帯から急に一面緑の葉っぱに囲まれたぶどうの国へ。
このギャップがまた楽しい。
そして今日はまずはこのデラウェアが食べ放題!なのだから参加者のみなさんのテンションもあがってきました!
さあ、ここからは降り続いている雨にもマケズ、風にもマケズ、いまが旬のぶどう「デラウェア」を思う存分食べてください!と、みなさんが食べ始めたころから、雨が小雨に。みんなの想いが雨を吹き飛ばしたのかな?
面白かったのが「実の先のほうがうまい!」とか「これはなかなか良い形だからうまいはず」とか、それぞれおいしいさを追求していたこと(笑)しまいに飛び出したのが「ハーモニカ食べ」という食べ方。
とうもろこしを食べるように、実を横にもってまわすようにしながらバクバク食べる!のだそうです。「最高の幸せ~」と池田市から参加のSさんもご満悦。
手が届かない子供たちも、大人に手伝ってもらいながら一生懸命おいしそうな実を選んで収穫していました。こどもたちにとっても普段は房だけみているぶどうが、これほど一面にぶら下がっているというのは衝撃だったかもしれない。
そして収穫したてのぶどうは格別においしい!
そしてみなさんが満足したところで、次は被災地に届けるためのぶどうを収穫。
「いま自分たちが食べたおいしさ、楽しさをそのまま被災地へ届けましょう!」
と呼びかけると、みなさんさっきまでとはすこし違った表情で
手に手に専用のハサミや収穫カゴを持って再び農園へ散らばっていきました。
関西から僕が支援に向かっている宮城県石巻市までは約900キロ。
車だと運転を交代しながら最低限の休憩のみで走り続けても12時間かかります。
物理的な距離はやはり遠く、実際に現地へ向かえる人も限られている。
それは間違いありません。
関西にいると本当に震災があったのかどうかすらわからなくなるほど今まで通りの生活です。でも今、この瞬間にも家族や友人を失い、家や財産、街や人のつながり、明日への希望すらも失って苦しんでいる、戦っている人たちがたくさんいます。
そういう人たちに関西にいる自分たちがなにをできるのか。
僕ははぶどうを届けることを通して「想い」を届けたいと考えています。
忘れられることほどつらいことはない、だから直接人から人へ、大阪のみんなのことも伝えながら手から手へ届けたい。そうすることで物理的な距離は遠くても、心が近くなる。
途方に暮れてしまうような大災害を前にできることは、そんな小さなつながりを繋いで、広げていくことなのかもしれないと思う。
一人の子が食べて養った選択眼で「これ絶対おいしいよ!地震のみんなに届けよう」と、とても立派な実を収穫してきてくれました。それを見て小林くんが「あ~!それは贈答用でおいてあったやつやのに・・・。」と半泣きに。まあまあ、被災されたみなさんの笑顔につながるんだから堪忍してください(笑)
こうしてみなさんのご協力で午前・午後あわせて60ケース、キロ数にして約80~90キロのぶどうを収穫することができました。雨のなか参加してくれたみなさん、本当にありがとうございました!
イベント当日は18日。19日に大阪を出発し、20日には現地に届ける予定です。
と、はじめは考えていましたが、そう簡単にはいきませんでした。
現地での活動のレポート随時アップしていきます。
G-Grape Pickにィック→宮城県石巻!
2020-06-06
人から人へ。手から手へ。大阪からぶどうを届けに!
「物理的な距離は遠くても、心の距離を近く!」をテーマに、被災地と関西を繋ぐプロジェクトとして企画した「G-Grape Pickにィック!→宮城県石巻」。
直接行くことはできなくても、被災地へ届けるためのブドウを一緒に収穫することで、被災地をより身近に感じてほしい、もっと長期的な関心をもってほしい、という気持ちでスタートした企画。参加者のみなさんと収穫したところから、被災地石巻のみなさんに届くまでをレポートします。
なお、被災地の状況は日々刻々と変化しております。記事の内容は7月中旬の状況であることをあらかじめご理解ください。
雨のなか大人から子供まで総勢26人で収穫したG-Grape Farmのぶどう「デラウェア」。
生ものであるぶどうは収穫から届けるまでの時間が勝負!被災地のみなさんに少しでも新鮮でおいしいぶどうを届けたいという想いで、翌日の夕方から宮城県石巻市へ向かって出発しました。現地までは距離にして900キロ、時間にして12時間の長旅です。
ところが運悪く、その日は大型で勢力の強い台風6号の影響で、滋賀県の米原JCTと米原ICの間で通行止め。待てど暮らせど一向に進まず、その日はそのまま高速道路の上で一泊。まさか出発間もない滋賀県で足止めになるとは思いませんでした。
すこしでも早く石巻へ!という想いは募るものの、そのまま朝を向かてしまいました。進んだ距離は前日21時から翌日9時までの12時間かけて600mほど。900キロ先を目指している僕にとっては気が遠くなるような
さあ、ここから一気に目指すは宮城県!石巻市!
気合を入れなおして走り続け、当日中に新潟県に入り車中で一泊。
翌日の朝7時に現地のボランティアセンターへ入ることができました。
みなと食堂へ 「大阪のぶどう持ってきたで~!」
1日目は1回目の支援で一緒に石巻に来た白馬堂のあさやんや青空カフェのすなっちが活動していた「みなと食堂」へ。僕も2回目の支援のときにすこしだけ炊き出しをお手伝いさせてもらいました。
まずは炊き出しをお手伝いしてくれているお母さんたちに。「ぶどう初物やわ~。おいしいおいしい。本当にありがたいねぇ。」と、とても喜んでくれました。
この時点で、みなと食堂のある湊中学校に避難されている方は80名ほど。そしてみなと食堂を管理している図書館長のTさんに「全員に配って下さい」と80房を託すことにしました。Tさんは「子供たちが喜ぶよ~」と快く引き受けてくれました。
そうこうしているうちに、
「おう、大阪からのぶどうもらいにきたよ」
と白髭のダンディなおじちゃん、Hさんが来てくれました。
Hさんはいまは違う場所へ引越ししてしまったのですが、もともとみなと食堂の管理者でした。震災初期、支援に訪れた白馬堂の浅野さんが、瓦礫やヘドロだらけだったこの場所を片付けたときからの友人です。
みなと食堂については「ひとりひとりつながる支援」の現地レポートを参照してください。
関西で収穫を手伝ってくれたみんなの気持ちも伝えながら「より多くの人の元へ届けたい」と数ケース手渡すと「近所の子どもたちに配るよ。」と言ってくれました。
そして最後に「俺も落ち着いたら絶対に関西の友に会いに行くからな!本当にありがとう!」と言っておられました。そのHさんの言葉がとても力強く、関西から遠く離れた石巻に来ても、こうして縁のある人に会えるということ。それは支援という枠を超えた人と人のつながりだと思います。
今回の震災の被災地域は南北500キロにわたります。あまりにも広大でなにをしたらいいのかわからない人も多いはずです。そして関西から宮城県石巻までの距離は900キロ。被災地が物理的に遠いことも関西からの支援に影響しているのは間違いありません。
そんななか人と人のつながりが心の壁や物理的な距離を超えられる方法ではないかとも思うのです。こういうつながりができることで「被災地」という漠然とした表現から「あの人が住んでいる場所」に変わります。だからオーガニッククロッシングではみんなで収穫したぶどうを手から手へ届けると心に決めていました。
明神社~Kちゃんの元へ
食堂のオープンは12時から。ぶどうは食堂のメニューの一品として食べに来られたひとりひとりに手渡してもらいます。1日に出す食事は約100~150食。そのすべてに1房づつ付けてもらいました。
僕はその間にみなと食堂から炊き出しの配達をしている「明神社」さんへぶどうを届けることにします。みなと食堂から車で10分ほどのところにある明神社さんは、海岸線に近く被害の大きかった渡波地区にあります。
そのなかで明神社は早い段階から近隣住民の方が集う青空コミュニティカフェとして炊き出しやお茶を提供するスペースになっていました。世話役のお母さんにいまの状況をお聞きすると、各地に避難されたり、仮設住宅に入ったりしていまではだいぶ人が少なくなったということ。
ここでもコミュニティカフェを切り盛りしているお母さんたちに大阪のみんなで収穫した話をしながらぶどうを手渡しました。みなさん「ぶどう!久しぶり~うれしい!」と喜んでくれました。
そして「大阪でもぶどう育ててるんやね~」と、東北では珍しい大阪のぶどうに興味深々の様子。あるんですね~大阪にもぶどうの産地が!!としっかり宣伝してきました(笑)この小さなつながりから遠く離れた石巻の地で大阪のぶどうが話題に上れば、とてもうれしく思います。
明神社から戻ると、次は最初に食材支援で石巻を訪れた際に、炊き出しの手伝いをしてくれていたKちゃんの働いているお店へ向かいます。
Kちゃんは避難所での炊き出しを手伝っていたことがキッカケで近くの中華料理店での仕事が決まりました。それは短期間しか支援に訪れていない僕にとって、とても印象的で希望を感じる出来事のひとつでした。そして次回来るときにはぶどう届けるからね、と約束していました。
お店はお昼の営業と、いまでは夜はビアホールもやっています。元気に働くKちゃんを見て少しづつではありますが、確実に元気になっていく街を感じました。そして大きな災害から立ち直ろう!元気を出していこう!とがんばっているお店のみなさんにもぶどうを手渡しました。
もち店のおばあちゃんへ
次に向かったのは石巻市の郊外にある道の駅「上品(じょうぼん)の郷」。
温泉も併設されているこの道の駅は野菜や加工品をはじめ、民芸品まで地場産品をたくさん置いています。
道の駅自体は直接的な被害は受けていないようですが、納品している農家さんや工場などは大きな被害を受けていて、その状況を伝えるメッセージが各所に書かれています。マネージャーさんと話をしていてこの道の駅が地域の農業や地場産業の自力復興にとても力になっていると感じました。
前回、関西へ帰る前に立ち寄って買い物したとき、入口の横で「梶原もち店」というお餅屋さんが小さなブースで直売をしていました。お店のおばあちゃんに「どこから来たの?」と聞かれたので「大阪から来たよ」と伝えると、「そんなに遠くから来てくれてありがとう、ありがとう!」と涙を流しながら感謝され、そして「もういいから!」という僕たちの必死の制止も振り切って、次から次へと「お土産に」とお餅を袋に詰めてくれました。
今回はその時の感謝の気持ちも込めてぶどうを届けに行きました。お店がでていなかったので道の駅のマネージャーさんに尋ねると、梶原もち店さんは土曜日と日曜日にしか出店しないとのこと。ただマネージャーさんは僕のことも前回のおばあちゃんとのやり取りのことも覚えてくれていて、そういう事情ならとわざわざ電話をかけてくれました。
結果的におばあちゃんは畑かどこかに出ているようで連絡がつかず、娘さん夫婦が受け取りに来てくれました。娘さんも僕のことを覚えてくれていたようで、大阪から再び戻ってきてくれたということに驚いた様子でした。そして「おばあちゃん喜ぶよ~」と言いながらぶどうを受け取ってくれました。
大街道小学校のみなさんへ
そしてこの日、最後に向かったのが5月中旬に支援に来たときに炊き出しをした大街道小学校。
大街道小学校での炊き出しの様子はこちらのレポートから。
5月に訪れたときには「ブロードウェイ食堂」という名前で大鍋で毎日350~500食の炊き出しをしていました。僕が帰ったあとすぐにボランティアベースの炊き出しが終了。その後自立支援ということで自衛隊の炊き出しも撤退していました。
その後、日が経ってからボランティアベースのメンバーが訪れたところ、避難所の人たちは温かい食事がまったく食べられていないことが判明。せめて日に一度ぐらいは温かいものを、と夕食時のお汁物だけお手伝いさせていただくことになったようです。
近隣の自宅避難の方に向けて炊き出ししていた以前と違い、避難所の方たちだけに提供するものなので量は100食程度。食材や機材はボランティアベースが提供し、調理は避難所のお母さんたちが担当する形になっていました。
この日のメニューは避難所の方のリクエストで「クリームシチュー」。
震災から4ヶ月以上が経過しているにも関わらず、避難所となっている体育館ではいまだにダンボールで仕切られ、簡易的なクッションが敷かれた小さなスペースにみなさん暮らしています。そして食事は夕方にお弁当とパン、真空パックされたような調理済みのおかずや果物、飲み物などが配られます。
そこへ今日はクリームシチューとぶどうが加わりました。
ひとりの年配のお母さんがおかわりに訪れた時「これはもういらない。温かいクリームシチューがおいしいよ・・・。」と言ってお弁当を置いていきました。その様子を見ていて、毎日の食事にせめて一品温かい汁物が加わることは、目に見える以上に意味のあることなのかもしれないと感じました。
生活環境も食事の内容も、震災から4ヶ月以上経ってなおこの状況が続いているのかと思うと愕然とします。そして避難している方たちの肉体的、精神的な疲労は想像を絶するものだと思います。身寄りを頼りに移住した人、住むところを見つけ引っ越した人、そしていまだに避難所での生活を余技なくされている人・・・。最初は自然災害の被害にあった人として同じ状況だったものが、日が経つにつれ個人個人の環境や状況によって差がでてきていることを強く感じました。日々刻々と状況が変わるなかで、それぞれの状況に合わせたきめの細かい支援や協力が必要とされています。
初日はここまでで活動を終えました。翌日は牡鹿半島の漁村へぶどうを届けに向かう予定です。
「ひとりひとりがつながる支援」から。
「ひとりひとりがつながる支援」は食材の支援として立ち上げたプロジェクトです。基本的には食に関しての支援を重要視しています。しかし被災された方たちの状況が細分化していく中で、僕たちが関西からできる支援の形も細分化していいることを痛感しました。と同時に、現地にベースを置き日々刻々と変わっていく状況に合わせ継続的に活動を続けている「ボランティアベース絆」の重要度が増してきていると感じます。
この団体は全国から集まる個人や団体が協力して運営しているボランティアベースです。その活動内容は幅広く、炊き出しや泥だしから瓦礫の撤去、漁業支援まで、地元の方々と十分にコミュニケーションをとりながらきめ細かい支援活動を展開しています。
そこでみなさまからいただいた支援金の一部を「ボランティアベース絆」に寄付させていただきたいと考えています。下記ホームページをご覧いただき、ご理解ご協力いただければと思います。ご意見などあればオーガニッククロッシングまでお寄せください。
「ボランティアベース絆」の活動についてはこちらのホームページをご覧ください。
以下「ボランティアベース絆」ホームページから抜粋
私達「石巻ボランティア支援ベース絆」は、日本全国にネットワークを持つ団体や個人の集まりです。
2011年3月11日から約1週間後、震災直後から東北入りしていた、過去の災害地でも行動を共にした仲間が石巻に集結しました。石巻市南境にある集会所を借り、一つ屋根の下で各団体、各個人の活動をスタートしました。それぞれの得意技を生かしたボランティア活動で着々と地元の方々と繋がりが生まれてきました。そしてそのコミュニケーションの中から生まれてくるニーズに対して、横の連携をとりあいながら対応をしてきました。
それぞれの団体、個人が日本全国のみならず世界に広がるネットワークを持っていて、その人と人との繋がりで毎日多くのボランティアがここに出入りしています。誰かの友達がベースにやってきて、その友達がまた友達を連れてやってくる。一度帰った人が1ヶ月後にまた来てくれる。そんな連鎖を繰り返して、わたしたち絆は活動しています。
重機を使った撤去作業も行ないます。避難所生活を送っているお母さんたちと一緒に炊き出しします。壊滅的な被害を受けた小さな漁港の漁師さんたちと牡蠣の養殖したりもします。カヌーに乗って漁船が入っていけない浜や、海に浮かんだ瓦礫の撤去、漁具の回収もします。
大きな組織的なボランティア団体と違い、柔軟な対応がすばやく臨機応変にできるというメリットがあります。わたしたちは地元の方々と話をします。そのなかで色々なことを教えていただきます。大切なご家族を亡くされたこと、家が流されてしまったこと。そして、震災前とまではいかなくても、今よりも少しでもよい状態になりたいと懸命にがんばっている姿を見てわたしたちが励まされることもたくさんあります。誰かのお役に立ちたいわけじゃなく、知り合ったひとりひとりの方の喜ぶ笑顔が見たい。私たちの原動力はその絆を大切にしています。
「ボランティアベース絆」の活動についてはこちらのホームページをご覧ください。
G-Grape Pickにィック→宮城県石巻!
2020-06-06
牡鹿半島へ,ぶどうを届けに。
「物理的な距離は遠くても、心の距離を近く!」をテーマに、被災地と関西を繋ぐプロジェクトとして企画した「G-Grape Pickにィック!→宮城県石巻」。
直接行くことはできなくても、被災地へ届けるためのブドウを一緒に収穫することで、被災地をより身近に感じてほしい、もっと長期的な関心をもってほしい、という気持ちでスタートした企画。参加者のみなさんと収穫したところから、被災地石巻のみなさんに届くまでをレポートします。
なお、被災地の状況は日々刻々と変化しております。記事の内容は7月中旬の状況であることをあらかじめご理解ください。
石巻1日目は市内の避難所や支援のなかでつながりのできた個人の方たちにぶどうを届けに走りました。2日目は石巻市から南東に伸びる牡鹿半島に点在する漁村へぶどうを届けに向います。
牡鹿半島には複雑な海岸線に沿って小さな漁村が点在しています。そのどれもが津波で大きな被害を受けている地域です。このあたりは地震の影響も大きかったのか、道路が陥没したり、崩れたりしている場所もあります。
希望の船、小網倉浜へ。
走りながら確認していると瓦礫は少しづつ減っているように見えましたが、進んでいるといえば瓦礫の撤去のみ。なにもかも流された小さな漁村にとっては復興というには程遠い状況に変わりはありません。
まずは1回目の支援の時に白馬堂の浅野さんが依頼を受けていた自動車修理用のコンプレッサーと、野菜などを届けた小網倉浜の非難所へ。写真は一回目のときに物資を届けたときの様子です。
このときはちょうど夕飯どきに物資を届けたので、一緒にご飯をいただきました。電気は復旧していましたが冷蔵庫の設備はまだなく、食品の保存が難しいといっておられました。まだ寒い時期だったので、そのときにいただいた鯨の皮(おばけ)の入った温かいお味噌汁のおいしさと避難所の方たちの温かさは忘れられません。
5月に小網倉浜を訪れたときの様子はこちらの記事お読みください。
小網倉浜に着くと避難所は相変わらずテントとブルーシートのまま。
「こんにちは~」と声をかけてみましたが誰もいない様子。裏手に回るとお母さんが数人洗濯をされていたので、大阪からぶどうを届けにきたことを伝えてぶどうを手渡しました。聞くと漁師さんはみんな牡蠣の養殖の準備で浜にでているとのこと。「ぜひ作業を覗きにいってみて」といっていただいたので浜へ向かいました。
浜は瓦礫はすこし少なくなった印象はあるものの、船や車などいまだに放置されているものもあります。その瓦礫の向こうにテントを張って漁師さんたちがホタテ貝の殻を紐に通す作業をしておられました。
「こんにちは~」と声をかけて前回コンプレッサーを持ってきた話をするとオレンジの服を着たおじちゃんが覚えてくれていました。そして今回はぶどうを持ってきたことを伝えると「お昼に食べるよ~」と言ってくれました。そして「作業見てって」といましている作業の説明をしてくれました。
写真手前に山積みにされているホタテの殻。これを繋げて海に沈め牡蠣の養殖に使います。震災の影響で作業が遅れているということで、みなさん黙々と作業をされていました。
漁師さんにとって漁の再開こそが復興への希望です。海に流れ込んだ瓦礫の問題、原発の問題など難題は山積みですが、すこしでも早く漁師さんたちの生活が元に戻ることを願ってやみません。
ぶどうの奇跡?大原へ。
次に訪れたのは小網倉浜からすこし走った場所にある大原の災害対策本部。
この集落の被害も大きく、村の入口から災害対策本部までの道沿いに残っている家はほとんどありません。この日も重機が数台入って瓦礫撤去の真っ最中でした。
災害対策本部の入口に差し掛かると、重機で大きな柱のようなものを運んでいます。
たずねてみると津波で流された家の床柱だったものだそうです。立派な彫刻がされていたので災害対策本部のシンボル的に入口に立ててあったのですが、この柱のあった家の持ち主が判明し、家を再建するということで返却することになったのだそうです。この日は大工さんが使えるかどうか確認に来ていたところでした。
その作業を一緒に見ているうちに「あれ?」と気になったことがありました。確認しようと近づいてよくよく見てみると、やっぱり!!熊と一緒になんとぶどうが彫られているではないですか!どうも熊がぶどうを取りにやってきたというシーンのようです。
大阪からぶどうを届けに来てみたら、被災した柱にもぶどうが彫られていた!(笑)この偶然の一致に災害対策本部の代表の方と少し盛り上がったのが面白かったです。
ぶどうを手渡して写真をお願いすると「せっかく写真とるならあんぱんマンと一緒がええか!」といって、なぜかあんぱんまんの彫刻の前で撮影。このあんぱんマンは同じボランティアベースの人がチェーンソーで彫ったもので、子どもたちに大人気。ここではあんぱんマンは本当に人を勇気づけているようです。
できる人ができることをすることで被災された人たちに笑顔が戻るんだな、と実感しました。
小渕浜へ。
大原にぶどうを届けたあと、同じボランティアベースの方が漁業支援を行っている「小渕浜」へ向かいました。
小渕浜の漁協も津波で大きな被害を受けました。
津波を受けた建物は屋根まで大きく変形し、窓や壁などもむき出しの状態。しかしボランティアの協力などで作業場の泥や瓦礫は取り除かれ、漁業の再開に向けて準備が進められています。
地元の漁師さんにお聞きすると、深刻なのは地盤沈下。このあたりは震災前に比べ120cm近く沈んでいるのだそうです。そのため大潮などの時には漁協の建物の内部まで浸水します。この日は特別大潮でもなかったようですが、港と海面がほぼ同じ高さになっていました。
「地形が変わる」という地球規模の大きな変化は沿岸部で暮らす人々の復興にとって大きな課題です。小渕浜でも住む場所も含め、今後どうするべきか専門家も交え検討されているそうです。
一方でこの浜にはボランティアが継続的に入り、瓦礫の撤去や漁具の回収を進め、漁業再開に向けての準備が進んでいます。しかし地形の変化以外にも問題はいろいろとあります。まず浜の入口に差し掛かるとまず目に飛び込むのが瓦礫の山。
市内も含め瓦礫だけは取り除かれたように見えるのですが、実は処理の方法すらまだ決まっておらず公園や空き地などに集められ山積みにされているだけというのが現状です。
次に目に飛び込んでくるのは漁具の山。こちらは漁に使われていたロープや網などが仕分けられ集められています。漁具は数十万から物によっては数百万するものもあり、新しく買い揃えるには多額の費用がかかるため、使えるものは回収して修理し再び使う予定です。
しかし人の背丈の倍近い高さに積まれた漁具の山から使えるものをより分けるというのは、考えただけでも目が回るほど途方もない作業。漁師さんだけではまず無理です。そこで活躍するのが世界中から集まっているボランティアのみなさん。この日はピースボートから20名近い外国人の方が支援に集まっていました。
この日の作業は漁具の回収に加えて、牡蠣の養殖を再開するための準備。港から届いた種がついたホタテの貝殻を針金からバラす作業がはじまりました。トラックに山積みにされた貝殻をバラす作業には大変な労力がかかります。しかしピースボートのボランティアの力でどんどん作業が進んでいきます!改めて人数の力を再認識しました。
日本語がわからない彼らに対して、外国語がしゃべれない漁師さん。
通訳できる方がいるときはいいのですが、いないときはゼスチャーと片言の英語でコミュニケーションしていきます。僕も混ざって作業していると「ヘイヘイ!ストップストップ!」なんて英語で話かけられて、「その人、日本人で~す(笑)」と周りからツッコまれ「あ~そうか!(笑)」なんて笑い合う一幕も。震災前まで外国人などほとんど訪れなかった村ですが、いまでは世界中から駆けつけてくれた人たちの温かさに感謝していると言っておられました。
距離や環境、言葉の壁を越えて、被災地に対して「自分ができること」を探して駆けつけた彼らに、尊敬と感謝の気持ちを感じました。
小渕浜では作業中に話の盛り上がった漁師のSさんにぶどうを預けることにしました。
Sさんの家はすこし高台にあるのですが、それでも津波で被災しています。本当に多くの方たちの協力でここまでやってこれたこと、そしてその力をバネにしながらこれからの復興に向かって行きたいという決意を話してくれました。奥さんからもとても丁寧な御礼の言葉をいただき、こちらのほうが恐縮してしまいました。
牡蠣の作業が一段落したところで小渕浜を離れ、次にぶどうを届ける「蛤浜」へと向かいました。
蛤浜は海から競りあがる斜面に張り付くようにして家が建つ小さな集落。ここでも海に近い家は土台を残して完全になくなっていました。
この集落では会いたい子がいました。その子はSちゃん。
白馬堂の浅野さんが4月に支援に訪れたときであった子で、分かれるときに浅野さんが「なにがほしい?」と聞いたら「りかちゃん人形がほしい!」と答えたのだそうです。
そして5月、浅野さんは約束通りりかちゃん人形をSちゃんに届けました。
そして6月、今度は僕がSちゃんにぶどうを届けに行きたいと考えていたのです。
集落を歩いて最初に話しかけたおばあちゃんが、たまたまSちゃんのおばあちゃんでした!事情を説明するとおばあちゃんはとても喜んでくれたのですが、Sちゃんはちょうどこの日までお嫁さんの実家に行って留守でした。
おばあちゃんは「会えたらよかったのにね~、夕方には帰ってくるんだけどね~」ととても残念がってくれましたが、僕も出発しなければいけません。かわりにおばあちゃんにぶどうを預けて集落を後にしました。
蛤浜のあとにはすぐ近くにある峰耕寺というお寺さんへ向かいます。
このお寺は「つながる炊き出し隊」というプロジェクトを立ちあげ、山形から支援に来ている徳永さんという方が継続的に炊き出しに訪れている場所で、ここにもぶどうを届けてほしいと依頼を受けていました。
徳永さんのところには三重のオーガニックマーケットの仲間が食材支援を行っていて、「ひとりひとりがつながる支援」も協力しています。
最初に出会ったお母さんに声をかけると、最初は「この人誰?」と怪訝そうな顔をしていましたが「徳永さんの依頼で」と伝えると、すぐに「ああっ!いつもありがとうございます。」とすぐに打ち解けてくれました。
お母さんは最初に怪訝な顔をしたことに申し訳なく思ったのか、事情を説明してくれました。最近は支援と称してさまざまな団体や個人がつぎつぎ訪れ、村の人が必要のないことをして帰っていく人も多く、みんな少し疲れているのだそうです。
そんななか徳永さんたちは継続的に訪れながら、村の人たちとしっかりコミュニケーションをとり、キメの細かい活動をしてくれていると言ってくれました。ぶどうもとても喜んでくれて「私たちは関西大震災のときになにもしていないのに、遠く離れた関西の人がたくさん支援に来てくれています。今回のことがあって人のつながりの大切さや温かさを知りました。いつかなんらかの形で恩返しがしたい。」と話してくれました。
ぶどうでつながる人と人。
そしてこのお寺に最後のぶどうを届けて、関西から運んだ約70キロのぶどうがすべてなくなりました。最初に台風で通行止めというハプニングもあり、長かったような短かったような怒涛の3日間でしたが「G-Grape Pickにィック→宮城県石巻!」でみなさんと一緒に収穫したぶどうを、すべて手から手へ無事に届けることができました。
ひとつお伝えしたいのは、このプロジェクトは「ぶどうを届ける」ことがメインではないということ。ぶどうはあくまでも「間」を繋ぐ存在にすぎません。
ぶどうを通じて関西のみなさんと石巻に暮らすみなさんが距離を越えてつながったということが一番大切です。いままでニュースで見ていた被災地は「遠いところ」だったかもしれません。それがこの記事を読んで「あの人の暮らすところ」になっていたら、僕がこのプロジェクトを立ち上げた意味があります。そうしてつながった「あの人」を通して、山のこと、海のこと、村のこと、暮らしのこと、地域のこと、復興のこと、日本のこと、未来のことに想いを馳せるキッカケになってほしいと考えています。
石巻が復興したときに、G-Grape Pickにィックに参加してくれた人が今回と同じ人や村を訪れて「大阪でぶどうを収穫して」と話をしたら「あ~あのときの!」なんて覚えてくれている人がいて話が弾んだら、間違いなく楽しい!
考えれば考えるほど困難な状況ですが、みんなで力を合わせて乗り越えていきたい、新しい未来に向かっていきたい。いつでも笑顔を忘れずに、がんばっぺ日本!
オーガニッククロッシングではこれからも継続的に行動していきます。
ご支援、ご協力のほどよろしくお願い致します。
オーガニック クロッシング
代表 出口晴久
「ひとりひとりがつながる支援」からのお願い。
「ひとりひとりがつながる支援」は食材の支援として立ち上げたプロジェクトです。基本的には食に関しての支援を重要視しています。しかし被災された方たちの状況が細分化していく中で、僕たちが関西からできる支援の形も細分化していいることを痛感しました。と同時に、現地にベースを置き日々刻々と変わっていく状況に合わせ継続的に活動を続けている「ボランティアベース絆」の重要度が増してきていると感じます。
この団体は全国から集まる個人や団体が協力して運営しているボランティアベースです。その活動内容は幅広く、炊き出しや泥だしから瓦礫の撤去、漁業支援まで、地元の方々と十分にコミュニケーションをとりながらきめ細かい支援活動を展開しています。
そこでみなさまからいただいた支援金の一部を「ボランティアベース絆」に寄付させていただきたいと考えています。下記ホームページをご覧いただき、ご理解ご協力いただければと思います。ご意見などあればオーガニッククロッシングまでお寄せください。
「ボランティアベース絆」の活動についてはこちらのホームページをご覧ください。
以下「ボランティアベース絆」ホームページから抜粋
私達「石巻ボランティア支援ベース絆」は、日本全国にネットワークを持つ団体や個人の集まりです。
2011年3月11日から約1週間後、震災直後から東北入りしていた、過去の災害地でも行動を共にした仲間が石巻に集結しました。石巻市南境にある集会所を借り、一つ屋根の下で各団体、各個人の活動をスタートしました。それぞれの得意技を生かしたボランティア活動で着々と地元の方々と繋がりが生まれてきました。そしてそのコミュニケーションの中から生まれてくるニーズに対して、横の連携をとりあいながら対応をしてきました。
それぞれの団体、個人が日本全国のみならず世界に広がるネットワークを持っていて、その人と人との繋がりで毎日多くのボランティアがここに出入りしています。誰かの友達がベースにやってきて、その友達がまた友達を連れてやってくる。一度帰った人が1ヶ月後にまた来てくれる。そんな連鎖を繰り返して、わたしたち絆は活動しています。
重機を使った撤去作業も行ないます。避難所生活を送っているお母さんたちと一緒に炊き出しします。壊滅的な被害を受けた小さな漁港の漁師さんたちと牡蠣の養殖したりもします。カヌーに乗って漁船が入っていけない浜や、海に浮かんだ瓦礫の撤去、漁具の回収もします。
大きな組織的なボランティア団体と違い、柔軟な対応がすばやく臨機応変にできるというメリットがあります。わたしたちは地元の方々と話をします。そのなかで色々なことを教えていただきます。大切なご家族を亡くされたこと、家が流されてしまったこと。そして、震災前とまではいかなくても、今よりも少しでもよい状態になりたいと懸命にがんばっている姿を見てわたしたちが励まされることもたくさんあります。誰かのお役に立ちたいわけじゃなく、知り合ったひとりひとりの方の喜ぶ笑顔が見たい。私たちの原動力はその絆を大切にしています。