OC Report オーガニック・クロッシング レポート
「ひとりひとりつながる支援」
2020-06-06
5月11日、宮城県石巻市へ。
3月11日に東北地方を襲った大地震、そして大津波。
自宅にテレビはなく、毎日ラジオをつけっぱなしにして情報を集めていた。時間を追うごとに明らかになっていく被害状況。実家に走りテレビに移る映像を見て、あらためて愕然とした。僕にいったいなにができるのだろうか・・・。モヤモヤした気持ちのまま2ヶ月近くが過ぎていった。
5月はじめ、4月頭に石巻市を訪れ支援活動を行った六甲のアウトドアショップ「白馬堂」の浅野さんから連絡が入った。
「5月11日から石巻に戻る予定だ。一緒に行くか?」
現地で野菜が少なくなっているという連絡を受けた浅野さんが、野菜のネットワークをもっている僕に声をかけてくれたのだ。僕に求められたのは避難所での炊き出し。1日300食、4日間で1200食という未経験の数字。必要な材料、必要なスタッフの数の見当さえつかなかった。しかも出発までの準備期間は2週間ほどしかなかった。
「行きます!連れていってください。」
幸いスケジュールの調整が可能だったこともあり、僕は迷いなくそう答えていた。
だけど僕一人の力は限られている、一緒に行動できる、信頼できる仲間が必要だ。思い浮かんだのは「手仕事屋ばんまい・やさいの広場」で一緒に働いていたゆかりちゃん。4月に仕事をやめ、5月からドイツに行く予定だった。その予定をずらしてまで一緒に石巻へ行くと決断してくれた。強力なパートナーを得て「なんとかなる!」という根拠のない自信が沸いてきた。しかし現実は甘くない。
公的な支援などない個人での支援活動。高速代やガソリン代だけでもかなりの金額になる。そこへ加えて1200食分の食材。ざっと計算しただけでも40万円近い予算が必要だった。個人で負担するには大きな数字だった。
被災した地域、範囲が途方もなく広い今回の災害。日本の5分の1が動きを止めたようなものだと思う。身体でたとえれば急に5分の1が動かなくなれば、とんでもないことになることは想像に難くない。そうわかっていてもあまりの規模の大きさに「自分にいったいなにができるのか・・」と思い悩んでいる人は多いはずだ。
それならそういう人たちが少しずつ協力することで、大きな力になるかもしれない。頭に浮かんだのはひとりひとりが直接被災地とつながる支援の形。全体を支えることは難しくても、ひとりがひとりを支えると考えればイメージが沸くし、できるような気がする。そして「ひとりひとりつながる支援」プロジェクトを立ち上げた。
被災していない地域に住む「ひとり」が、被災した地域の「ひとり」の食を支える。
炊き出しは1日1食。1食300円と仮定して、4日間で1200円になる。
この1200円分の支援を300人にお願いすることで
1200食分の食材を準備することができる。
ここに僕はオーガニック・クロッシングとしてもうひとつの考え方を持ち込んだ。それは
被災地を支援する・している農家さんたちへの支援。
被災地に届けられている野菜の大部分が農家さんからの「寄付」で成り立っているのだはないか?「被災地に持っていくなら米1トンでも無料でだしたる!」と言ってくれる人までいた。津波で被災した三陸沿岸地域は、農業や漁業などの一次産業に従事する人が多くいる。農家さんはそういう人たちの気持ちが痛いほどわかるという。だから被災地に対する支援・協力を惜しまないと話してくれた。
だけれど農家さんにとって野菜や米は貴重な収入源。いつまでも無償でというのは長く続かないし、一部の志ある農家さんに負担(本人は気持ちで動いているので負担と思っていないのですが)が集中するのもおかしな話だと思う。それならみなさんからいただいた支援金で野菜や米などの食材を購入することで支援している農家さんを支え、それを被災地に持って行き、炊き出しという形で被災地のみなさんを支えよう!
この考え方を基本に支援金をお願いし、たくさんの方の協力で最終的に100万円を超える支援が集まった。それを元に農家さんから直接野菜を購入し、車が沈むほど野菜を満載にして一路、宮城県石巻市へと向かった。
続きの記事は随時更新していきます。
ご支援・ご協力いただいたみなさまへ。
今回の「ひとりひとりがつながる支援」にご支援・ご協力いただいたみなさま、本当にありがとうございました。この場を借りて心より御礼を申し上げます。そして現地での活動レポートという形で、現地の状況をみなさまにお伝えすることができればと考えております。
メンバーのひとり、ゆかりちゃんのドイツ行きのスケジュールの都合上、石巻から帰ってきてすぐに報告会を行いました。支援していただいたみなさまにキチンとした告知ができず申し訳ありませんでした。報告会の模様はUstreamで中継していたため、下記アドレスにて録画を見ることができます。1時間2分です。音声が聞こえづらい箇所がありますが、ご了承ください。
http://www.ustream.tv/recorded/14785122
支援金は5月24日時点で残高が855260円あります。
この支援金を元に、いくつかの地域の拠点に旬の野菜を集積するネットワークを作り、継続的に被災地に送るシステムを作るために動き始めています。詳細はオーガニック・クロッシングのホームページ上で随時ご報告していきます。
ここでもう一度、今回準備した食材の内容を記載しておきます。
寄付も多かったため、予定よりも費用はかかりませんでした。その分、継続的な支援にまわしていきたいと考えています。
お米
お米60kg・・・熊レンジャー五味くん、二人百姓から寄付
お米60kg・・・綾部・井上吉夫さんから購入
お米30kg・・・手仕事屋・山田さんから購入
お米10kg・・・Hさんから寄付
お米120kg・・・ゆかり友人より寄付
野菜・果物
大根20本・・・やさいの広場から購入
人参20kg・・・やさいの広場から購入
人参20kg・・・天王寺エコスペースゆうさんから購入
玉ねぎ20kg・・・やさいの広場から購入
玉ねぎ10kg・・・淡路島Dちゃんから寄付
キャベツ20玉・・・道の駅で購入
じゃがいも20kg・・・道の駅で購入
じゃがいも20kg・・・天王寺エコスペースゆうさんから購入
小松菜80束・・・奈良・五ふしの草から購入
ほうれんそう200束・・・奈良・五ふしの草から購入
絹さや3キロ・・・奈良・五ふしの草から購入
ごぼう6束・・・奈良・五ふしの草から購入
しょうが・・・奈良・五ふしの草から購入
しょうが・・・やさいの広場で購入
甘夏10kg・・・淡路島Dちゃんから寄付
カットトマト缶100本・・・スーパーから購入
加工品
板こんにゃく100個・・・やさいの広場から購入
糸こんにゃく100個・・・やさいの広場から購入
干ししいたけ1ケース・・・里山きのこ学校から寄付
のり・昆布などの乾物・・・ゆかり友人から寄付
梅干・支援物資・・・和歌山Mちゃん、ほのほ助産院他から寄付
ありがとう味噌12kg・・・ありがとんぼ農園から寄付
酒粕6kg・・・ありがとんぼ農園から購入
切干大根50袋・・・てらだ農園から購入
大豆黒千石2kg・・・手仕事屋スタッフNくんから購入
お醤油一升瓶2本・・・醤油仕込み講座で仕込んだもの寄付
梅干10kg・・・和歌山・山本農園さんのもの。個人の方から寄付
板のり1000枚・・・やさいの広場から購入
ひじき3キロ・・・卸売市場から購入
葛粉500g・・・やさいの広場で購入
ゴマ油・・・やさいの広場で購入
肉
鶏モモ肉10kg・・・猪名川町・中元かしわ店から購入
鶏ミンチ5kg・・・猪名川町・中元かしわ店から購入
物資
軍手240、長靴50、ゴム手袋50などの物資・・・山本博工務店から寄付
※山本博工務店は独自に寄付を募り、たくさんの物資を支援してくださいました。
「ひとりひとりつながる支援」
2020-06-06
目の前にあることからはじまる。
石巻に近づくとまず目に飛び込んできたのは、通常と変わらないように見える街の風景だった。
ところどころに屋根がブルーシートで覆われた家があるものの、阪神大震災と違い地震自体の影響はあまりないように感じた。ただところどころに点在する、うずたかく積まれた瓦礫の山から、ここが津波の被災地であることを意識させられた。
石巻の市街地に入ると、まだところどころに泥の塊があるものの2車線の道路は支障なく通行でき、ガソリンスタンドやコンビニも営業を再開ている店も多く見ることができた。
その様子をみて浅野さんが「ここまで街の回復が進んでいるのか!」と驚きの声を上げていた。浅野さんが訪れた1カ月前は、メインの道路もアスファルトが見えない状態だったという。
ただ、海に近づくにつれ道の両側に積まれた瓦礫の量が増えはじめ、津波の爪あとが実感できるようになってくる。そして被害の大きかった地区に入ると、状況は一変する。
「これは・・・、ひどい・・・」
大きく破壊された店舗、土台しか残っていない家、グチャグチャに潰されたり縦を向いている車、道の両側に寄せられ積まれた瓦礫の山・・・。あたりを包む鼻を突く匂い。
圧倒的な自然の力の前になす術もなく破壊された街。その様子は「復興」という言葉が非現実的に感じるほどだった。
テレビで見ていてある程度想像はしていたけれど、それを超える現場の空気に、僕をはじめ一緒に同行していたメンバーのゆかりちゃんやすなっちも言葉を失った。
ここに住んでいた人たちの恐怖や絶望感、喪失感を想うとやりきれなかった。と同時にこの場所で僕たちができることなどあるのだろうか・・・そんな不安が心をよぎった。
一度僕たちが窓口にしていた高知リスポンス協会の拠点に寄ったあと、すぐにメンバーが活動している牡鹿半島の漁村へ向かうことになった。そのうちのひとつの避難所には浅野さんが事前に連絡を受け準備していたエアコンプレッサーを持っていく予定になっていた。
牡鹿半島に向かって走ると、道の途中に小さな漁村が点在している。しかし無事に立っている家のほうが少なく、押し寄せた瓦礫に埋もれるように屋根が見える。
おもちゃのように横転した消防車、道をふさぐように転がるコンテナ、ひび割れ段差のできた道は車がなんとか走れるように畳で補修してあった。そんな道を抜けてボランティアのみんなが活動している漁港に入った。
漁港では十数人のボランティアの人たちが作業していた。僕たちも早速加わる。作業は単純。手作業でひとつひとつ瓦礫を取り除き、使える漁具とゴミを分けていく。
中くらいの瓦礫や破片はこの港で使われていたものだろうか、魚を運ぶようなコンテナの中に入れて引きずるようにして移動する。大きな材木や冷蔵庫などは数人がかりで運ぶ。小さな破片は板を使って手で集め、最後は箒で掃いていく。
箒はたった3本。ちりとりはなく、ベニヤ板の切れ端でゴミを集める。唯一使える重機はおもちゃのような小さなユンボが一台のみ。気の遠くなるような地道な作業に正直驚いた。その向こうには人の背丈以上にうずたかく積まれた瓦礫の山がある・・・。
でも誰も文句も言わずただ目の前の瓦礫をすこしずつ片付けていく。ただなにも言わず目の前にあるものを。
昼過ぎから加わって夕方まで続いた瓦礫撤去。
あまりにも地道な作業に「これで意味があるのか?」と最初は思ったけれど、終わるころには以前の漁港の姿が少し想像できるくらいまで片付いていた。その姿に作業に加わった人たちの間から自然に拍手がわきおこっていた。
被害の規模や範囲を考えると、ただ呆然と立ち尽くしてしまいそうになる今回の災害。外から見てもそんな状態なのだから、実際に家や家族、友人を失った被災地の人たちの喪失感や絶望感はどれほどのものかと想像すらできない。だけれど被災した人たちに代わって目の前にあるひとつの瓦礫を取り除くことが、明日に向かう勇気に、希望につながっていく・・・。それを実感した瞬間だった。
翌日、僕は別の場所の炊き出しで参加できなかったのだけど、この同じ港で重機を使った大規模な撤去作業が行われ、山のように積まれていた瓦礫はすべて撤去された。そしてそれを祝うお祭りがこの場所で開催された。下が浅野さんが撮影してくれた翌日の同じ港の様子。
実際にこの翌日、地元の漁師さんたちが自らこれからの展開を話し合う初めての会合を開いたという報告を聞いた。
行政の援助や大規模な作業は確かに必要であることは間違いない。だけれど小さなことの積み重ねが大きな力に変わることだってある。被災地の人たちが希望や勇気を感じることができれば、そこから初めて「復興」へと向かっていけるのだと思う。
最初の一歩を踏み出す力に、すこしでもなれたことがただ単純にうれしかった。
続きの記事は随時更新していきます。
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「ひとりひとりつながる支援」
2020-06-06
希望の船
その後、僕たちはボランティアのメンバーが瓦礫撤去に当たっていた港を離れ、牡鹿半島の違う漁村にある避難所へとむかった。港に入るとすぐに目についたのが海に浮かぶたくさんの船。津波で流されて漂流しているのか?と思ったけれど、どうも様子が違っていた。気になりつつも避難所へ急ぐ。
この港の被害はかなり深刻で、道路は隆起し、港の設備はほぼ壊滅状態。家もすこし小高い場所にお堂と一軒残っている家以外はほとんどなにもない状況だった。
そんななか、復興への祈りを込めてだろうか、たくさんの鯉のぼりがはためいていた。車で走りながらふと横を見ると、瓦礫の中を中学生らしき子が歩いている。丘に一軒残った家の子か・・・、そう思うとやりきれない気持ちになった・・・。
ここの避難所はかろうじて崩壊を逃れた家の前に建てられていた。ガスや水道は復旧の目処すら立っていない状態だが、電気だけは引かれていた。しかし電気があっても電化製品がほとんどない。冷蔵庫もないので自衛隊から支給される物資も保存ができないので、できるだけ早く食べなければならず困っているという。
浅野さんが事前に連絡をもらいエアコンプレッサーがほしいと言っていたのがこの避難所だった。エアコンプレッサーがあれば車を修理することができるので市街のほうに買い物にもいけるという理由からだった。こういう避難所が自立して動けるような、キメの細かい支援がいま必要とされていると感じた。
僕も炊き出し用に準備していたほうれん草や小松菜などの野菜をたくさん置いていくことにした。なかでもいまが旬の絹さやは「もう何ヶ月も食べてねえ!」と大好評だった。野菜をたくさん食べてもらって元気を出してもらえたらうれしい。
この避難所でさっき気になっていた船の話を聞くことができた。この船は漂流しているのではなく、周辺の漁村から動くものが集められているということだった。というのもこの港は波が穏やかで風も強くないため安全に保管できるからだという。
「船さえあれば、漁さえできれば、ワシらはなんとかなる。」
そういって港に浮かぶ船を見つめる漁師さんの目が印象的だった。こんな状況のなかでも希望の光を失なわない、そんな強い目だった。
漁村や農村などの暮らしは、その土地との繋がりで成り立っている。特に印象的だったのは、漁村の人たちが自分たちの家よりもお堂や海の神様を直すことを優先する、という話だった。外から来ている人には「ただの石」に見えても土地の人からすれば代々守り継いできた「大切な神様」だったりする。津波によって多くのものを失ったとしても「海がしたことだから」と話す人たちの自然観や土地との繋がりは、街に暮らす人たちとは大きく違う。
たとえ巨大見本市会場に1万人避難できたとしても、たとえ仮設住宅が1万棟建ったとしても、漁村の民、農村の民は土地との繋がりを絶たれたままでは立ち直ることができない。本当の復興計画はその土地に住む人たちが「大切にしているもの」を中心に据えなければ意味がないのではないかと思う。
瓦礫に埋もれた港に浮かぶ希望の船から、そんなことを感じた。
続きの記事は随時更新していきます。
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「ひとりひとりつながる支援」
2020-06-06
ブロードウェイ食堂
翌日から僕とゆかりちゃんは予定通り炊き出しチームへと加わることになった。とはいっても現場での段取りなどはまったくわからない。まずは被災地支援に来ているボランティア団体が集まる夜のミーティングに参加することにした。
ミーティングは専修大学の敷地内で毎晩行われている。各ボランティア団体がそれぞれの日々の活動を報告したり、次の日の活動内容を告知したりしながら、連携して被災地での活動にあたる重要な機会になっていた。
各避難所で炊き出しを行う「炊き出しチーム」をはじめ、道路や家屋の泥を処理する「泥だしチーム」、重機で瓦礫を撤去していく「重機チーム」、避難所で生活する人たちのケアにあたる「リラクリゼーションチーム」など、役割ごとに情報を交換していく。炊き出しでは「ここの避難所にはまだ炊き出しが2度しか来ていない」とか、「この場所で20食ほどの炊き出しの希望があった。」などという情報が交換されていた。
僕が窓口にさせてもらったボランティア団体ではお昼に「大街道小学校500食」、そこから移動して夕方に「公民館150食」、そのほかに「湊中学校200食」などを担当していた。僕とゆかりちゃんは明日から大街道の方に参加することに決まった。
大街道小学校の炊き出し所は、「大街道」という名前にちなんで「ブロードウェイ食堂」となずけられていた。この炊き出し所にはまだ電気もガスも水道も来てない。なので電気は発電機、水道は自衛隊の給水車、500人分の炊き出しを作る大きな2つの釜は灯油を利用している。
避難所となっている体育館の炊き出しは自衛隊が提供しているので、ブロードウェイ食堂を利用する人は近隣の家に暮らす人が多い。
炊き出しには専門のスタッフがいるわけではない。そのつどボランティアに訪れた人のなかから調理にたけた人がチーフを務め、その日のスタッフになった人たちでメニューの決定から、食材の準備、調理まで段取りしていく。
キャンプ用のテーブルを2つ並べただけの調理台、水洗いは簡易シンク、食材の管理は簡易テント、と十分な設備はないのだが、僕もゆかりちゃんもキャンプ生活に慣れているせいか違和感なく仕事できた。
炊き出し場所によってはご飯、汁物、一品、メインと本当に食堂なみのメニューを作る所もあるのだが、ブロードウェイ食堂は数量が多いということもあり、作るのは一品のみでご飯などの提供はなかった。
炒め物や手の込んだ料理なども出したいのだが、500人前となると調理が大変なのでやはり汁物が中心になってくるのは仕方がないのかもしれない。この日のメニューは大阪から持ってきた鶏ミンチを入れた具沢山のお味噌汁。できる限り野菜を多く入れるように心がけてみた。
12時前になると食堂の前には炊き出しを待つ行列ができはじめる。
食堂で食べることもできるのだが、ここの炊き出しは避難所で暮らす人よりも近隣の家で暮らしている人が多いということで、ほとんどの人が鍋を持ってきて4人分、6人分、と家族の人数分もって帰っていく。朝にパンやおにぎりの支給があるものの、温かい食事はいまだにお昼の一回のみ。「ありがとう」という言葉が心に沁みる・・・。
この日は副菜としてボランティアの拠点に届いていたトマトと、奈良のオーガニックマーケットの榊原さんが手配してくれた絹さやを準備した。
トマトはわけあって別の避難所に持っていったのだけど、絹さやはブロードウェイ食堂で提供することができた。量もすくなく、1家族に数本ぐらいしか渡せなかったけれど、被災地では圧倒的に生野菜が不足しているので「本当にうれしい、ありがたい」とみなさんとても喜んでくれていた。
僕たちが炊き出しをした大街道小学校は津波被害のひどかった地域と少なかった地域の境界ぐらいに位置していて、避難所となっている体育館には、まだたくさんの被災者の方が暮らしている。1家族2~3畳ほどのスペースはダンボールで仕切られているだけ。座れば隣は見えないけれど、立てば見渡せるのでプライベートはほとんどない。隣の人たちに気をつかって話し声もほとんどなく、シーンと静まりかえっている。それを見て2ヶ月たってもこの状態なのか・・・とすこし驚いた。避難所で暮らす人たちのストレスは想像以上のものだと感じた。
炊き出しを利用する人は近隣で生活している人も多く、炊き出しの配達などもあったので、時間ができたときに車で近くを回ってみた。その状況は想像していたよりずっと悪く、とても暮らせるという状況ではないように見えた。家に帰る人も避難所の生活よりは自宅の方が、という気持ちなのだと思うのが・・・。改めてこの場所で行う炊き出しの重要性を再認識した。
石巻市でも津波の被害にあっていない地域は平常を取り戻しつつある。けれど津波にあった地域はいまだ復興の兆しすら見えていない状態だと感じた。その温度差はこれからさらに大きくなり、さまざまな問題が表面化してくるのではないかと感じた。
続きの記事は随時更新していきます。
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「ひとりひとりつながる支援」
2020-06-06
「ずっと遠くまで見渡せる、あの丘に登ろう」
僕たちの炊き出しチームは正午と午後に分けて1日に2箇所の炊き出しを担当していた。
ひとつは前回の記事で登場した「大街道小学校」のブロードウェイ食堂。そしてもうひとつがもうすこし海側に位置する「中央公民館」という場所だった。
ここでは近隣住民の方が、公民館の1階、2階、3階に分かれて避難生活をしている。いままで料理長を務めていた人が午前中の大街道の炊き出し終了後に石巻を離れるため、今日から僕たちが午後の中央公民館の炊き出しもまかされることになっていた。
この公民館の近くに日和山という小高い丘がある。浅野さんから「公民館に行くなら、この丘には必ず登っておいたほうがいいよ」と事前に言われていた。前日地図でしっかりルートを確認していたこともあり、スムーズに現地に到着することができたので、この日の炊き出しチームのみんなで日和山に登ってみることにした。
普段は石巻市有数の観光地だったのだろう、日和山の上からは石巻の市街を見渡すことができる。そしてそこから見た光景は、たぶん、いや間違いなく一生忘れることができないだろう。
市街地だったはずの場所には、ポツンポツンと建つ家を残してほとんどなにもなかった。
海からの風に乗って聞こえてくるのは重機の音やトラックが走る音だけ・・・。
目の前に広がる景色のなかに、街の生活や人の暮らしの痕跡はほとんど感じることができなかった。
戦時中の空襲というものを僕たちは知らない。
けれど、きっと空襲のあとの街はこういう状態だったのだろう・・・と想像できた。
人の生活や暮らしの痕跡を感じることができないということがこれほどショックなことだったとは・・・。
この光景を目の前にして、僕は手を合わすことはできても、街にカメラを向けることができなかった。
ベースに帰ってからそのことを浅野さんに話すとこう言われた。
「デグチくんはなんのためにここまで来たんや?」
「あの光景を撮らないとあかん。そして伝えなあかん。それがここに来た人間の責任や。」
次の日、僕はもう一度あの丘に登った。そして写真を撮った。伝えるために。
石巻まで来る途中、浅野さんがずっと聞いていた「大丈夫」という斉藤和義の曲がある。
「ずっと遠くまで見渡せる丘にのぼろう」からはじまるこの曲が、車のなかで何度も何度もリピートされることに、僕は意味を見つけることができなかった。
しかし日和山に登り、石巻の街の光景を目の前にしたあと、この曲が宝物に変わった。
そしてこの曲はこんなフレーズで終わる。
「大丈夫。なるようになるのさ、いつでもそうやって笑ってたじゃない。」
なるようになる。だから希望を捨てずに前へ進もう!
続きの記事は随時更新していきます。
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「ひとりひとりつながる支援」
2020-06-06
みなと食堂
僕たちが窓口にさせてもらったボランティア団体は、毎日2チームに分かれて炊き出しを行っていた。僕たちが担当したのが大街道小学校「ブロードウェイ食堂」500食→中央公民館150食。もう1チームは湊中学校の「みなと食堂」という場所で200食の炊き出しを行っていた。
日々自分の持ち場の作業で忙しく、ほかの炊き出しを見に行くことはなかなかできないのだが、朝のすこしの時間だけみなと食堂に寄ることができた。
湊中学校の周辺は津波で甚大な被害を受けた地域のひとつ。校舎の壁に残る津波の跡は一階の半分あたりまで達し、教室のなかはめちゃくちゃに壊されている。
いまではきれいになっているグラウンドだが、浅野さんが訪れた4月初旬の時点では人の背丈を越えるほどの瓦礫の山だったという話を聞いた。3月11日、この場所がどんな状況だったのか・・・そのことを思うと心の奥からこみ上げてくる感情を抑えることができない。
photo by asanophoto by asano
そんな過酷な状況のなかで、初期に現地入りしたボランティアと地元の人たちが一緒になってヘドロに埋まった武道場を片付けた。床一面に散乱するヘドロやゴミをかき出しては床を拭いていく・・・。そんな地道な作業の末にやっと炊き出しができる状態になったのだそうだ。そしてすこしづつ炊き出しの設備を増やし、テーブルや椅子を並べていき、現在の「みなと食堂」のカタチになっていった。
いまではテーブルには花が飾られ、小さな図書館がオープンし、マッサージのためのテントが設営され、壁には全国、あるいは世界から届けられる応援メッセージが飾られ、近隣の被災者の方々の憩いの場所、そして希望を感じられる場所になっている。
これは僕が訪れた5月14日時点での様子です。被災地の状況は日々変わっていっています。最近のみなと食堂の様子は一緒に炊き出しをした東京のカメラマンSさんのブログに紹介されています。
そしてこの場所に僕たちが訪れたことで2枚のメッセージが新たに加わることになった。1枚は浅野さんの娘さんが通う幼稚園のみんなが書いてくれたメッセージ。そしてもう一枚は支援物資として味噌とお米を送ってくれたありがとんぼ農園の息子さんが書いてくれたもの。どちらのメッセージも被災地に支援に向かう僕たちも含めて勇気づけてくれた。
こうやって日本全国、世界中からのいろいろな人の支援と協力で、時間の経過とともに日々変わっていく「みなと食堂」の姿は、被災した人たちの心の状況と重なるように思えた。そしてその先には必ず希望がある。
今日僕の息子は「大きくなったら僕もおとうちゃんみたいに地震のとこにご飯つくりに行く仕事するんやで。」と言ってくれた。浅野さんは幼稚園で「地震のおじちゃん」と呼ばれているらしい。未来を担う子供たちの心のなかで、今回の災害が人事でないというだけでも僕らが動いた意味はあると思う。
空も、海も、大地も、そして人もつながっている。
今回、神戸から一緒に石巻を訪れた六甲で「青空カフェ」を営むすなっちは、みなと食堂で毎日珈琲を入れて、たくさんの人たちに憩いの時間を提供していた。
出発前、彼は「珈琲を入れることしかできない自分が被災地でなにができるのだろうか」と正直悩んでいたらしい。しかしそれでも行くことを決め、実際に現地を訪れてみると「珈琲を入れること自体が被災地を支援すること」だったということに気づいたと話してくれた。この違いはとても大きいと僕は思う。
そして用意した豆が「20キロ」という、通常考えられる範囲を超えた量の珈琲を毎日入れることで、段取りや手順などが整理され自分の仕事の限界があがったとも話してくれた。実際に行きと帰りでは彼の表情はあきらかに違っていた。
photo by asanoそして六甲のアウトドアショップ「白馬堂」の浅野さんは神戸のベーグルショップとタイアップして企画した被災地にベーグルを送るプロジェクトで持参したベーグルを焼いていた。被災地を訪れる間、自分のお店の営業をこのベーグル屋さんに頼んでいたのだそうだ。
「ベーグル屋がアウトドアショップを開いて、自分は被災地でベーグルを焼いている。アベコベやな(笑)」
と笑っていた。自営業の人が被災地を訪れるということは、その間の収入が途切れることを意味している。その高いハードルをアイデアと行動力、そして信念と熱い気持ちで乗り切って行く浅野さんの姿に、僕は少なからず影響を受けている。
先日、同じ石巻で支援活動をしているご夫婦とお話する機会があった。参加者からの質問で「いま一番必要とされているものはなんですか?」という質問に「人です!」と迷わず答えられていたのが印象的だった。日本中の「人」の力が必要だと感じる。
空も海も大地も、そしてもちろん人もつながっている。震災も津波も原発も日本に暮らしている自分たちの問題。避けては通れない。行ける人は行こう!「今」と「未来」を考えるためにも。必要とされていることは行けばわかる。行けない人は日々の暮らしのなかで常に関心を持ち続けてほしい。そしてできることを考えてほしい。
最後に、現地に長期間滞在しボランティアをまとめる役目をしていたカメラマン、有人くんが捉えてくれた炊き出しのなかの一コマ。
photo by arito
どんな政策よりどんな情報より、どんな文章よりどんな言葉より、笑顔のチカラが、一番スゴイ。
「ひとりひとりつながる支援」にご協力いただいたみなさま、本当にありがとうございます。被災地の復興には今後何十年という期間が必要です。そしていまも日々状況は変わっていっています。メディアでの報道は減り続けていくと思いますが、常に関心を持ち続けてください。
僕たちも震災支援をキッカケにつながった八百屋や百姓の仲間たちで継続的な食料支援のカタチを模索しています。いまだに生鮮野菜の受け入れは石巻にとどまっているということで、北部の方ではいまだに生野菜が不足しているという情報もあります。
さらに現地のニーズは細分化、多様化しており、こちらから送るだけでなく、現地で必要なところに必要なものを分配する仕組みが必要だと感じています。その実現に向けて、みなさまからいただいた支援金も使わせていただけたらと考えています。経過はオーガニッククロッシングのホームページで報告させていただこうと思っておりますので、今後ともよろしくお願いしたします。
オーガニック・クロッシング 代表:出口晴久